- 東京経済大学本橋哲也教授の シェクスピア劇鑑賞ツアーに参加して -
1.ドンマー・ウェアハウス劇場
RSC,ローヤル・シェクスピア劇団は、ロンドンの拠点劇場をバービカン劇場に移す1982年以前、1981年までの四年間はドンマー・ウェアハウス劇場を本拠地としていた。
そのドンマー・ウェアハウスは1990年に有能な若手演出家サム・メンデースを迎え、又1992年には演劇の独自制作劇場に成長し、大発展を遂げたのである。2002年11月映画制作に転身した、サム・メンデースの後を受継いでこのドンマー・ウェアハウスのアーティスティック・ダイレクターに就任したのが演出家マイケル・グランデーヂであった。今回当劇場で上演された、演出マイケル・グランデーヂ、主演デレック・ジャコビの「リア王」は前評判がよく前売り券が一年前には完売で、今回の観劇ツアーの予定には組めなかった演目であった。そのため12月3日公演の初日に販売される当日券10枚の1枚を入手すべく朝8時に窓口に並んだ。(因みに発売開始時間は10時、芝居の開演は午後7時半である。)17年振りに襲来した寒波の吹きすさぶロンドンの早朝の街路上でのことである。
2.「リア王」を観る時思い出すこと、霊魂のイメージのこと
手許の記録をたどってみたら、2002年3月シェフィールドで観たケネス・ブラナー主演の「リチャード三世」の演出がドンマー専属就任直前のマイケル・グランデージであった。リチャードの足には金属製のギブスを履かせ、足を引き摺らせる演出であった。そのグランデーヂの芝居「リア王」を今回は観たり聴いたりすることに成ったのである。「リア王」を観るとき、思い出すことが幾つかある。パーガトリイという煉獄のこと、Nothingと言うこと、そして賛美歌を転用した聖歌660番「かみともにいまして」のことである。現在関心があって読みつつある本に「煉獄のハムレット」と言うハーバード大学のスティーブン・グリンブラット先生が2001年に書いたものがある。この本には、死後の世界を「D」という花文字の中に表した絵が出ている。ドイツのヒューゴー・リペリン・フォン・ストラスブルグの書物からの引用である。これによると、文字「D」の中に表現された死後の世界はT字型十字架で三分割されていて、上部が天国らしき楽園で、アダムが鍬を振り上げている。二分割された下部の左半分が煉獄でエンジェルの見張りが霊魂の脱出を手引きしている。右半分に描かれた地獄の門番は悪魔でこれが厳重に見張り霊魂の脱出を不可能にしている。この本に出てくる、霊魂のイメ-ジは男も女も全てが全裸の人間である。霊魂は歴史的にそのように表現されてきたようだ。ミケランジェロが1512年と1541年に描いたシステナ礼拝堂の天井画の「天地創造」の絵、及び「最後の審判」の壁画を思い起こしてみた。裸体は神をかたどり、神に似せてつくられた純粋な人間を表していた、即ち人間の霊を裸体の姿で、ミケランジェロは表現していたのである。そして、過去と現在を結びつける、時間を超越した観想の世界における人間の本質、神と人間との中間の霊的姿を表現しているのだ。そもそも原罪を背負い込む以前のエデンの楽園の男と女であるアダムとイヴは、純粋な霊であったのかも知れない。そのように見てくると、矢張全裸の人間の姿が魂をイメージする歴史があることには留意しておく必要がある。2002年の芝居で見た亡霊たちは「ハムレット」の場合だけが例外的に甲冑を着けていた。それ以外「リチャード三世」、「ジュリアスシーザー」に出てくる亡霊は全てが例外なく裸体で下着一枚で登場したのであった。尚サンピエトロにあるミケランジェロの「ピエタ」は1499年の最高傑作である。
3.悲劇の発端は”Nothing”である
芝居「リア王」の悲劇はIncarnation(受肉)無き媚びと諂いの言葉 (貌言)が実は”Nothing”であることを理解しないことで生じたのだ。コーデリアが「nothing」と言ったのは、「自分には受肉無き追従のことばは無い。」と主張したのである。別言すれば、受肉無き言葉、即ちNothingからSomethingが生じると認識した、リア、ゴネリル、リーガンは神を冒涜したことに成るのだ。リアはそれはあり得ないと自分で指摘したにも拘わらず、NothingからSomethingが生じると認めたことになる。無から有を生じることは神の創造行為であるからだ。つまり姉たちの言葉こそがNothingであるのだ。神を冒涜したその結果がそれぞれに対する懲罰としての煉獄の試練であり、地獄落ちの結末をもたらしているのだ。全体の好演にも拘わらずマイケル・グランデーヂのNothingの解釈が不十分であることに筆者は不満を覚えた。
4.リアとコーデリアの運命そして聖歌660番
王権と領土の生前贈与を行って、本橋先生の所謂「シニフィエ無きシフィアンの王様」に成ったリアは「D]の中の上部の楽園を目指してオルバニイ宮殿、コーンウォール宮殿に隠居生活の場を求めた。出掛けて見たら両方の門番は悪魔でありそこは地獄であることが分かった。仕方なくリアはヒースの原野と言う煉獄へ飛び出さざるを得なかった。この煉獄は将に聖歌660番の二番「荒野をゆくときも、あらし吹くときも」の彷徨いなのだ。この荒野は、丁度ヴェローナの城外がロミオにとっての地獄であり、煉獄であるのと同じものなのだ。それはハムレット王の霊魂が、苦悩の試練を味わっているであろう煉獄をリアが追体験しているのだと見ることもできるのである。そして、聖歌660番の一番「かみともにいまして、ゆく道をまもって」いるのが、コーデリアへの導きなのである。コーデリアには、従ってフランス王の救いもあり、結局リアも最後はコーデリアを抱きかかえてピエタを演ずるのだから、コーデリアはイエスなのだ。その終局場面こそが聖歌660番の三番「御門(みかど)に入る日まで、慈しみ深きみ翼の陰に」と重なるのである。
5.筆者はジャコビよりもマッケランを好む
このように考える筆者は、今回のマイケル・グランデーヂ演出、デレック・ジャコビ主演2007年のトレヴァー・ナン演出、イアン・マッケラン主演の「リア王」を高く評価する。Nothingと悲劇性の解釈と演技が徹底していて、シェクスピアの作劇意図に近い解釈だと筆者は感じるからである。つまりリアが荒野で裸になるのは、単に老人の痴呆がさせる技ではなく、人間のNothing、本質的霊魂のイメージを的確に表現していると考えるからである。従って言葉巧みに”IanMcKellen paraded in his birthday suit.”(「イアン・マッケランが生まれた姿で荒野を歩く。」)とティム・ウォーカーが表現してみても、筆者にとってはそれが空虚な響きでしかないからなのだ。
6.今回の舞台や出演者のこと
今回の舞台は、アルメイダ劇場の白っぽい湾曲した剥き出しのコンクリートの壁にも似て、三方の壁、それに床までが薄汚れた白っぽいペイントであしらわれていた。これは空白なリアの心の内を表すものだと解釈されているようだが、筆者にはNothingを表現しているように見えた。筆者はこの芝居ではそれ程Nothingに拘っているのである。従ってヒースの荒野の試練の場面や、盲目のグロスターが飛び降りごっこをしたドーヴァーの断崖絶壁の場面がこの狭い舞台で演じられても違和感ないのである。これは誠に不思議なことであり、この芝居全体がシェクスピアのことばのマジックで進行するからなのであろう。グランデーヂ監督は、極めて有能な役者たちを集めて一座を作り上げた。劇評家から、老いて当代第一級の名優に成ったと称えられたデレック・ジャコビは勿論、今回の一座では、「復活した救い主」と言うべき存在のケント伯を演じたマイケル・ハドレイもいた。目があっても見えず、目を失ってはじめてものごとの本質が見える、心眼(マインド・アイ)が持てる、われわれ普通の人間一般をみごとに表現したグロスター伯役のポール・ジェッソンも光っていた。地獄の門番の悪魔でありながら、二枚舌のエドマンドを誑かすため妖艶さを振りまき、夫を平気で罵倒するストランペットのゴネリル役のジナ・マッキイ。グロスターを痛めつける場面で、狂気を発揮するリーガン役のジャスティン・ミッチェル、この二人の悪女も見事に演じられていた。お人好しでないことがなかなか表現しにくいベドラム乞食のトムを演じ、見捨てた筈の親父の救い主を結局は演じたエドガー役のギリム・リー、本心はリアには理解してもらえていたはずの道化役ロン・クック、何れも見事な演技であった。
7.コーデリアに関する解釈
独り言のような字句で書かれているが、バーガンデイ公爵の言葉に繋げた台詞の形式で記述してある。「主の平和がバーガンデイ公と共にありますように!」「あの男の愛や結婚は、地位や財産が目当てである。自分はそんな男の妻には絶対成らない。」これはバーガンデイ以外の人々に吐かれたコーデリアの言葉であると筆者は考える。彼女が単なる内気な弱い女であるとは思えないのである。コーデリアはものごとの本質を弁え、良心のうちに神が臨在する理想の女性なのである。老いぼれた老人の軽い言葉には、お座なりな返答で十分と考える世の中でしばしば聞かれる俗説には与したくはない。従って、今回のアフロ系女優ピッパ・ベネット=ターナーの十分すぎる内気なコーデリアは頂けなかった。もっともこれは女優の演技というよりは、演出マイケル・グランデーヂの解釈の問題かも知れない。尚このアフロ系コーデリアの伴侶フランス王にもアフロ系の役者が起用されていた。
8.人間の悪行とドラマティック・アイロニイ
さて悪の権化エドマンドの好演も光っていたが、この悪行とそれがもたらす悲劇の展開について考えてみたい。「オセロ」に出てくるイアゴーも「リア王」に出てくるエドマンドも、それぞれ完全無欠に近い悪巧みを練る。その奸策はなかなか露見しない。しかしこれらは、単にドラマティック・アイロニイが可能にしているだけなのである。観衆、聴衆には全てが見通せるものなのだ。だから、悪行に励む鬼の役どころは恥を忘れて白々しく、その思いのたけを実行すれば事足りるのではあるまいか。かれらの心には、神の光が差し込む隙間がないのだ。だからルシフェールと暗黙の契約を結び、悪が実行できるのだ。でも観客である神には全てがお見通しであろう。現実の世界で行われる奸知、悪行も観客の立場で全てが見通せる形而上の存在者には全てが分かってしまう、ドラマティック・アイロニイであるのかも知れない。であればこそ最後の審判も出てくるのであろう。以上のように色々と考えさせる中味のを揃えた、マイケル・グランデーヂとデレック・ジャコビの「リア王」公演であったから、これは将に傑作な芝居であったと言えるのだろう。